昭和54年08月10日 朝の御理解
御理解 第82節
「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。」
昨日偉い先生が書かれた御本を少し読ませて頂いて、教祖金光大神の四十二才の大患、あそこへ教祖の転機というものがある訳ですよね。四十二才の時にいわば大患を患われた。そこから神様のおかげを受けられてもう心機一転された。そして神様のいうなら一の弟子と貰い受けられる様な働きが、その後において常に起こってくるんですね。四十二才までの金光大神を、いうならば我情我欲の金光大神と言う風説いてありますね。
我情我欲という事はそのなんですかね。性根の中にその素晴らしいものをお持ちになっていたのです。その天分というものは別ですけれども。とにかく人間は働かなければ、幸にはなれないと。人が一時間働く時には一時間半働かなければ、まぁいうならお金でも残らんと。それをこの実行なさったのが、四十二才までだったのだという意味なんです。そして、その精神がどういう事かというと。
お天道様が、まだ日の高い所におられる時に休んでおっては、天道様に対して申しわけないと、朝は朝星夜は何とか申しますかね、もう日が暮れるまで働かれた。瓦屋の粘土運びとか、松葉かきなんかをなさった時代がありますね。人が松葉を二把かく時には、三把かいとられる。粘土でも人が二荷運ぶ時には、三荷そのかついでおられる。四十二才までのあの御大患までに。それこそ貧農から村でも何番かという指折りの、いうなら自作農になっておられます。
所から見ても随分の働きが出来られたお方であったという事が分かります。そしてその心根の中に、まぁどういう事があるかというと、私は昨日始めてそこん所をよう分からして頂き、読ませて頂いたんですけれども。勿論あんお上納なさる時には、例えば十俵納めればよい時でも、よう穫れたといやぁ十一俵も十二俵ももっておいでられたという所がある訳ですね。
かというとこんだぁ残りの米を米屋にお売りになる時にも、まぁ一級品とか二級品と言う風に、まぁ分けてはないのですけれども、やっぱり選ったような一粒選りのようなその米。値段は同じだけれども。米屋に売られる時には必ず良い米を持って行っておられます。だからもう文さんの米は特別だというので、その値段を高く米屋が支払っておるという事が、文献に残っておるという事です。ですからそこへんの所が違います。
けれども違いますから、私共もやっぱりそういうなら真似でもさせて頂かねばならないという事になります。限りなく美しくならせて頂くという心の状態をだんだん、美しゅうなっていっておりますと、自ずとそういう事が出来るようになる。教祖様はそれが生まれつきにお出来になった。たとえ我情とはいうても、我欲とはいうてもです、だから人の茶碗でもたたき落としてからでも、自分が先にというものではない。
何んとはなしにその時分から、天地との一つの関わり合いというものが、出来られるだろうと思われるような生き方をなさっておられる。天道様がまだお働き下さっておられる間は、人間も働かねばならないとこういう。そういう生き方が、神様の目に止まる事になるのでしょうけれども、四十二才までのその金光大神というものがです、大蔵省に例えば税金が納まらなかったらと言う様な表現をなさっておられますけれども。
出来るならば、それこそごまかしてでも、税金は少なく納めたいと言った様な、その考え方を持っておる人の中に、もうそれこそ十俵納めればよいものでも、よく穫れたからといえばそれに一俵そえて持って行かれるというような生き方。今日は私はその、金光大神四十二才までのいうならば、働かなければ人間の力の限りを尽くさなければ、と言う様な御時代をですね。いわゆる実意丁寧神信心の要素と言った様なものが、そこにもう培われておったと言う様な感じが致しますね。
私は今日は大蔵省という事を、天地というふうにとらえて聞いて頂きたい。最後にどこの太郎やら次郎やら分からんようになろうぞ、と仰っておられる所をです、私共が現世から、あの世に行かせて頂いた時の事を、一つ思うてみて頂きたい いうならば「天地への還元」ね。大蔵省に税金を納めるように、天地への還元という事がなされる。ね、篤農のある方がね、とにかく藁ですかね、藁のすべてを大地に還やすと。それをま還元というふうにいっておられます。ね、そうすれば土地は痩せる事はないと。
天地への還元。どこの太郎やら次郎やら分からん。これは私が伺い得た、私がまぁかすかに知り得たのが人間のいうなら、あの世というか霊の世界というものは、まぁどういう事でしょうかね。私共がこの世は苦の世だ、苦の世界だと思うております。ですからこういう素晴らしい道があるんですよ、こういう光輝くおかげの受けられる道があるよというても、それをなかなか「おう」と応える人が少ないように。
信心のお導きをさして頂いてもね、なかなかそれを素直に、はぁそんな素晴らしい道があるなら、私も一つ信心さしてもらおうという人が極少ない。もういよいよ「溺れる者は藁をも掴む」というような時になってはじめて、いわゆる《悲しい》時の神頼み的に、信心をする人がだいたい多いです。平穏無事な時にはなかなかもって、そういうそれこそ、ただ一生懸命働きゃよい。そこでこの世は苦の世、苦の世という事になるのであり、いうならば苦の世界と言う事になる。
もうそのこの世には苦労が満ち溢れておると言う風に思いこんでいる人が、それから逃れる手立てがもしあるならば、ただ働く事一生懸命働く事、という事だけで人間が幸になるように思うておる。金があれば物があれば、というふうに思うておる。そこでいうなら、たまたま例えば合楽に御縁を頂いた方達は、たまたまというたらいいだろうと思うですよね。何かがそこに何かがあって、そして心を神様に縋らずにおれん、向かえずにはおれない事になって、まぁ御信心を頂くようになり。
いうならば天地の道理を聞かしてもらい、天地の御恩徳を分からしてもらい、日々こうした神恩報謝の生活がだんだん出来るようになった。そして信心の有り難い事が分かってきたから、それを人に例え伝えても、そげなこつがあるじぁろかとか、ね。私達は神様仏様に頼まんでもと言った様な、まぁ言うならば横柄な生き方をしておる。そういう中からです、私共が天地の親神様の、いわば御恩恵の中に生かされて生きておるという事が分かって、神様の心の中に添い奉る生き方。
わが身は締まるほどに神徳の中に生かされてあるんだなと。それを感じれれるようになる為に我情を取れ、我欲を取れと教えられるんです。我情とは自分の思いを取れ、右になりたい、左になりたいじぁない。我欲というのは、ね、いうならば、我の伴うた欲である。人間には欲というのは誰でもある。いろいろに信心のない時は、思い煩うけれども、信心しておかげ頂いていっちょ、億万長者にでもなろうかと、おかげ頂きたいという願いをだんだん持つようになりますけれども。
だんだん信心が分かってくると、今月今日只今が、有り難いという事になって来る。我情をいわんでも、我欲をいわんでもすむ。そこからね、どういう世界が開けて来るかというと、私共が我情我欲をいうておった過去の時代より以上の、おかげの頂けれる世界が開けて来るという事です。今日私はここん所を聞いて頂きたいです。私共が我情我欲をいうておったその位の事ではない。それこそ夢にも思わなかったような世界が、開けて来るという事なんです。
だからなら教祖様が四十二才までの、言うなら人間教祖と申しましょうかね、人間的生き方。そこにいうならいろいろな、いうなら精進をなさった。人がまぁ五時間働くなら、六時間も七時間も働かれたというような生き方を。しかもそれが理屈を知っておられたわけではないだろうけれども、天地のそれにいうならぴったりくるような思い方が素晴らしかった。ね。天道様が日の高い所に休むような事をしたら、勿体ないと言う様な、その考え方なんです。
それが天地の心に通うたという。勿論四十二才から神様の御用をなさるようにだんだんなって、もういよいよ我情もなければ我欲もないという生活に入って行かれた。まぁそこん所に私の例を以て聞いて下さるのが一番身近だとこう思う。私もそうだった。信心してどうでも、私は商売より他に道を知りませんからね。もう商売で知っておるならば一旗も挙げよう、儲けだしもしょう、そして大きな御用が出来る様な私になろうと。もう我情の限り我欲の限りを、まぁ感じておった時分でございます。
お取り次ぎを頂いて、お願いをしておかげを頂いてた時代でありますけれども、いよいよいうならば、これから先は行かれんという所に至った時に、始めて自分の思いを捨てた。もう神様の前に無条件降伏が出来た。もう神様貴方のおかげを頂かなければ手がない、という所に立ちいった時に、我情もなければ我欲もないと言う様な。それでもやはり、やっぱ今から思やあれが我情だったとこう思うですけれども。
「神様私は一生白いご飯、固いご飯を食べようなどとは思いません。一生風呂にども入ろうとは思いません。一生布一寸買いません。下駄一足買いません。」だからどうぞ両親にだけは子供達だけには、まぁ私の方はその時分から二度でしたから、皆さんの場合は三度ですけれども。三度々のご飯が食べさせられる位なおかげは頂きたい、という願いを持っておった。
このままもし両親がなくなったら、もう目もあてられん。この両親に喜んでもらいたい、安心してもらいたいと思うて、いうならば海外にまで働きに出たんですから私は。だから帰ってもその思いは募るばっかりでした。もう自分で本当にあのうお粥さんでもいい腹一杯子供達にでも食べさせたらそれで、もう本当にいいと思うた。今思うてみるとそれが我情だったでしょう、我欲だったでしょうね。やっぱそう思うとった。
だんだんおかげを頂いてまいりましてなら、今日の事を思うてみるとですね、もう私が夢にも思わなかった、私が我情我欲で思うておった。いうなら億万長者にもならせて頂きたいという思いであったような思い以上に、今日私はおかげ頂いておるという事実なんです。だからね、あの我情我欲を取るという、あの我情我欲がある時おかげを頂いた分んはですね、必ず喉元通れば熱さを忘れるになるです。
だから我情を取り我欲を取って頂くおかげというものは、もう一から十までがおかげでという事になるんです。それが素晴らしいんです。「はぁ私どんなそうにゃがま出したから」と、「そうにゃ働いたから」と「私のやり方がよかったけん、こがしこ財産が残った」という事になってですね。もう本当に私共が、神様の前に無条件降伏し何も出来ない私である事が分かった所からです。
頂かして貰うおかげというものは、もう一から十までが神様の御恩恵のものであり、お恵みのものでありおかげであると頂けるから、誰よりも増して有り難いという心が強い。その有り難いというその心に、おかげはもう限りなく与えられるという事になる。現在私の生活というのは、どんな億万長者でも勝つまいと思う。そりゃ贅沢しているという意味ではないですよ。どんなに億万長者であっても、億万使うたらそれで無くなるでしょうが。私のは億万使うてもいつも億万あるから、それが本当の長者だと思うんです。
だから我情我欲を捨てて、信心の稽古をさせてもろうて、我情我欲以上の我情我欲。そういう所を『小欲を捨てて、大欲に生きぬけ』というような、私は教えを頂いた事がありますが、そういう事じぁないでしょうか。そういう生き方、それを私は還元の生活だと思うですね。天地へ対する所の還元です。自分の物というものがないのですからね。だから神様が例えば、この合楽にある財産の全部が欲しいと、もし仰るならばいつでものしをつけて上げられるという心の状態が、私の心の中にあるんです。
そこでです、私共がこの世でね、天地へ対する還元、これは我情を取らねば、我欲を取らねば出来ないのです。本当に神様が受けて下さるような御用。それに不純なものが、我情がついて、我欲がついておったんではね、本当の還元にはなりません。いわゆる還元というものにぁ真心。その真心というのは我情がない我欲がないという、その心が伴うたもの。だから金光教では真心というのが追求されるわけですよね。そして私共が段々です、この世だけの助かりではない、あの世で助かるという事がもっと本当なんだ。
その為にこの世に生を受けとるんだと言った様な、ぎりぎりの所が分かってくるんです。この世は長生きして、五十年か百年である。けれどもこの世で本気で、魂を清めたり磨いたり、いわゆる我情我欲を取ってです、天地へ対する還元が出来得る生き方を、身につける事の為に、私共はこの世に生を受けて来たんです。でなかったらお釈迦様の説じぁないですけれども、又それこそ生まれかわってこにゃならん。
ようやく人間に生まれ変わって来たのに、又馬に生まれ変ったり又犬に生まれ変ったりせにゃきゃならんならどうなりますか。そりゃとっても助かりようがないです。私共はこの世には魂を磨きに清めに来て、永劫その魂が光を持つ、魂が力を受け徳を受ける。永劫あの世で助かる事が出来得る霊の世界に入りたい。その為に魂を清めとかねばいけない。為にはいわゆる天地と仲ようする信心がでけとらなければならない。
親のものは子の物子の物は親の物と、いうくらいな、いうなら間柄というものが出来てこなければ出来ない。ね、だからいうならば小欲を捨てて大欲に生きぬくという事は、我情我欲を捨てて、そして今まで我情であった我欲であったと。これは金銭とか物だけの事じぁないです。総て人間の幸の条件の全ての事にいえる事です。があぁもしたいこうもありたい、あれも欲しいこれも欲しいと思うておった時代以上に、今度は欲しいと思わんでも向こうの方から、寄って来るというおかげが私は大欲の世界だと思うです。
そういう生き方をさせて頂いて、いうならあの世でどこどこの太郎だ、どこどこの次郎だと名のつくだけの霊になる事が出来ると私は思うです。
そりゃ霊の世界というのは、私は霊祭度に思うんですけれども、いうならばもうこの世は苦の世苦の世界ともう思いこんで、それから一歩でも出ようとしない人達が沢山。もう人間の殆どがそうであるようにです、霊の世界に行ってもです、まぁ分かりやすくいうなら、地獄の中に落ちてです、もうそれこそ蛆やら虫やら分からんような、ぐじゃぐじゃしたような霊の生活をしとる事がもう、それで当たり前、これがははぁ霊の世界だなぁと思っておる訳です。
それが少し分かったら、こんな悲しい事はないです。例えば私共がね、いうならこの世で信心のそうした喜びを頂いてね、天地と仲ようする信心が出来て、親の物は子の物、子の物は親の物と言う様なおかげの世界を頂いて、そのまま魂が霊の世界に入って行って始めて、どこどこの太郎どこどこの次郎というように、まぁ一角の霊、安心の霊、喜びの霊、永劫助かる事の出来る霊として、おかげを頂く事になるのです。
今日私は、どこの次郎やら太郎やら、というのをね、あの世で一つ、名前の一つくらい、頂けるくらいな霊になりたいと思うんです。その為にはこの世でてす、私自身がね私が、私の心が自分で拝めるような精進をしなければ出来ない。それにはどういう事かというと、我情を取らねばいけません。我欲を取らねばいけません。そこに始めて分の心がが拝めれる信心。我ながらわが心を祭らせてもらい、我ながらわが心が、いうならば拝めれるような信心の稽古をさせて頂くね。
何故そういう事になってくるかというとね、いわゆる「我情我欲を放れて真の大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてあり。」という事が分かるから。我情を取らなければいかん、我欲を取らなければいけん。そりゃ我情なりに我欲なりに、お取り次ぎを頂いて、なら我情がいうならば思うようになったとか、おかげ頂いたという、そのおかげはね本当の喜びにつながらない。
我情が取れて我欲が取れて、なる程わが身は神徳の中に生かされてあるんだなぁ、という実感なんだ。ね、わが身は神徳の中に生かされ、はぁ神徳の中に生かされておる印だなぁというねおかげが伴うて来るんです。実感として思わずにはおれん。「はあぁここに百万円ちょっと要るんだがね。」「はぁそうかね」と例えば神様にお願いすると、どこからか百万円集まって来ておると致しましょうか、これはわが身が神徳の中に生かされておるから、そういう働きが出来るんです。
そりゃもう本当に恐れ入る事ばっかりです。わが身が神徳の中に生かされてありという事は。あれが飲みたいなぁ、これが食べたいなぁ、と例えば思うたらちゃんとそこに集まって来る働きがあるです。いやもうそれはね、そう思う前にちゃんと神様が準備しておって下さる程しの世界を、私はわが身は神徳の中に。理屈の上でいうならば、もう皆んなが神徳の中に生かされてあるんだけれども、そういうおかげを受けて、始めてなる程神徳の中に生かされてあるんだなあ。私の思うた事はもう神様が聞いてござる。
「私がこういいよったら、もう神様が聞いておって下さったばいの」と言う様なおかげの世界である。だからわが身は神徳の世界の中に生かされてあるという喜びが、いつも頂けていくのです。そういう心をです我ながら拝める心。これはもう教祖金光大神の専売特許。これは大坪総一郎のいうならば、専売特許じゃ絶対ないです。皆もその通りのおかげが受けられる、と仰るのですから。
そこで私は思わせてもらうのに、天地に対するところのいうならば、天の心美しい心。そういう美しい心で、いうならば天地へ対する還元。例えば上納一つ税金一つ納めるでもです、そこに不純なものがない。教祖様の場合なんかは、十俵納めればよいのを、十一俵納める。十一俵そのままが還元になっておられた。米屋に売っておられる。売買の事ですけれども。
けれども米屋さんが文さんの米だけは調べる事もいらなきゃ、いらんまぁ他が一円の時きゃ一円十五銭なら十五銭で買うといわれる程しの、なら売り方をしておっても、それはそのまま天地への還元です。我情がない我欲がない。そういう生き方がいよいよなら、神様との直接交渉がお出来になられて、いよいよ垢がぬけた上にもぬけられて、それこそなくなってしまわれたというような状態を、生神金光大神の境地だというふうに、私は思うんですけれども。
私共でもなら合楽に御縁を頂いておられる方達は、そういういうならば、ささやかではあるけれども、日々体験を積んで行っておられる。昨日でしたか、一昨日でしたかね、西原教会の総代さんの話をしましたね。自分が欲しいあれを食べたいと思う物が、ずっと病院で上って来たという話でしたね。そうめんを食べたいと思うたら、そうめん。パンが食べたいと思うたら、パンが来たという。
だからそういうおかげを頂く事の、根本になったのは、あの大きな怪我をなされて、病院に入られて、そして五十何才がですけれども、これから先は自分の我情は言うまい、我欲は言うまい、もう教会の御用に専念しようと思うた時点から、そういう働きが起きて来たというのです。だから退院して帰られて、又、先輩の総代さんがいわれる事にはです、「00さんそん位の事でも、なら自分の思うような物が集まって来る位だから、まちっと願いを大きく持ちなさい」というたち。
その願いを大きく持つという願いが、神様のいわゆる天地に叶う、いうならば思い方をさしてもらう時にです、貴方の信心はそれだけ大きくなる事になるんだ、という意味の事を聞かしてもらったという事をね、まぁ信徒会で発表された。という話をね、昨日一昨日でしたか。もう我情我欲を取った向こうには、そういうね素晴らしい働きが、いうなら私共が我情我欲をいうて来た以上の、我情我欲以上思うて来た以上の、いうならばおかげが伴うて来るもんだという。
そんならもう、今のこの我情我欲を満たして下さったら、なお有り難いと思うですけれどもね、それを頂いたぶんじゃ有り難いというものが伴はないという事です。そして喉元通れば熱さを忘れるという事に、必ずなるという事です。だから一辺は我情我欲を取って、いうならば、わが身は神徳の中に生かされてあるという程しの、心の状態が開けて、それに限りないいうならば、億万長者のお徳を受けてゆくという。その心がそのままあの世に誕生する。そこでね、お徳を受けた力を受けた霊には何々の霊という。
いうならばどこの次郎やら太郎やら分からんという事ではない霊の世界で、いうならばいよいよ永劫助かりの霊として、おかげが頂けれるという程しの大変な事なんだ。信心さして頂きよりますとね、そういう事実が私がお話しを例えば、まぁ夢の様なそら事の様な風に聞こえるかも知れませんけれども、それがやっぱ先生がいわれる事が本当だなあと、こういう事がその事実だろう、実証だろうと言う様な働きを受ける事が、段々出来る様になって来るから、いよいよ神様を信じて疑わない心が強うなって来るんです。
先日昨日、一昨日総代会でしたが、総代会が終わりまして、外へ出てまいりましてね、神様にお礼申さしてもらいよりましたら、それこそ『四十七士があのう討ち入りの時の装束といいますかね着物を着て槍をこう持って、こう皆腰掛けておる所を頂いたんです。そして、ちょっと腰掛けたんじゃなくて、『こう肩を叩いたっちゃ立ち上りもせんといった感じで腰掛けておる所』を頂いたんです。
それを頂いて私思うたのにね、さぁ合楽でそれこそ世紀の奇跡といわれる程しの働きの中に、今日合楽建設がああして起こっておりますけれどもね。昔十三日会に集まって来る人達が四、五十人でした。これがだから合楽の四十七士だといった時代がありましたがね、もう本当に中堅どころ、この人達が力入れんなら誰が入れるかというごだろとが、いっちょん力を入れとらんという事です。装束だけはつけとる。槍だけはこうやって持っとる。ちゃんと腰掛けとる。ね、
だから本当にそういう人達が本気で立ち上るという事なんです、問題は。だからたとえばよ、なら神様のいうなら屋形というか、神様の働きがその、神様のこれからいよいよ沢山の人が助かって行く為の、いうなら合楽会館。今は信徒会館といっております。信徒会館が建立される事に、私共が御用に御使うて頂くのですから、これが還元にならんはずはないのです。ね、
これで一心発起してもう絶対間違いのない、大地う叩く程しに間違いのない、いわゆる還元が出来れるチャンスというものは、そういつもかつもざらにあるものじぁない。そういうチャンスを逃しちゃならない。まぁ今日の御理解からは、天地に対する還元。それが一番最後にどこの次郎やら太郎やら分からんようになろうぞ、という事になるか、どこの何々の何かしと言われるような、霊の世界でいうならば、喜びの世界に入って行けれるか、暗黒の世界に入って行くかの分れ道にあるような私共は気がします。
折角信心頂いとっても、ただ我情我欲の為だけの信心であってはね、それは却って天地に対する借金が出来るようなものであって。本当のおかげにつながらない。本気で一つ我情をとる稽古。我欲を取る稽古。そして本気で天地へ対する、これなら還元になるという所にです、決めていく信心さして頂いて、私共過去信心のなかった時代に、もう我情我欲でいっぱいであったその心、そのおかげよりもねです。
それ以上のいうならば、我情我欲に、例えばなら数十年前の私が、今日のような生活が出来るなんて、それ夢思わなかった。私のささやかな我情がね、もう一生とても固い御飯など食べようなど思いません、親達にとにかくあのう二度の御飯が、いわゆる固い御飯が食べさせられれば、それでもう文句はいわん。子供達に腹いっぱいお粥さんでもええ食べさせて頂けば、これは一つの我情であり我欲であったでしょうけれどもね。
なら私が北京にまいりました時に、それこそ大変な我情我欲をもって立身出世を夢見て行ったんです。けれども、ういう時よりもこういう時よりもね、もっと素晴らしいいうならば満たされたですね、おかげの世界に私が住んでおるという事実です。これは百年前の教祖様の事ではなくて、私自身の事なんです。ですからここで稽古する人達は、そういういうならば、信心を身につけていかなければね。
信心はしよるばってん、いつまぁでん我情で我欲で突っ張っとるという信心から、とにかく還元の有り難いという事を一つ、それこそ悟らせてもろうてね、まぁ今日は霊の世界に行ってから、もう行ったら何々の某と霊の位も頂けるくらいなおかげを頂いておきたいという事を聞いて頂いた。
どうぞ。